習わなければならない、という話ではない。習った方がいい、という話でも、ないだろう。もし習ってみたいなら、習ってみてもいいんじゃない? という程度の話である。些かばかり気の抜けたサイダーのような姿勢かもしれないが、とはいえ至極あたりまえの姿勢ではあるだろう。だが、世の中を見回した時、これはそれほどあたりまえとして通用している姿勢では、残念ながら、ないようだ。残念ながら、という感想が漏れるあたりに、この文章を書いている動機があるのだが、それは置いておくにしても、いろいろな外国語をもう少し甘いものとしてみた方がいいのではないかという言葉は、滑った口を名残惜しむとはいえ、虫歯にならない程度に、以下綴ろう。
例えば、国語力をしっかりつけてから、という話がある。あれは、言いたいことは、もちろんわかる。指している事態も、事実だと思うし、避けた方がいいと思う。基本的には悪気がないことも、自明である。ただ、言い方は、間違っている。色々な事態を、混同している。関係のないものを、関係づけている。関係のあるものを、見落として、誇りを被せたままにしている。元々は、似た意味だったのかもしれない―――こういうのを、偽言語学と言う。そんな言葉は、きいたこともない。埃を被ったまま胸を張っている人がいたら、そっと、窓を開け、そよ風にあててあげよう。そよ風、と言ったのは、あまり強い風をあてると、自尊心まで吹き飛んでしまいかねないからだ。
日本語メインの環境で暮らしているのに、日本語の習得に大きな支障をきたすような要因を導入したり、看過したり、そういったことは、しない方がいい。例えば猿轡のように子供の耳にヘッドフォンを嵌め、起きてから眠るまでずっと英語の音を流し続けきかせる、というようなことは、しない方がいい。莫迦な、と思われるかもしれないが、子供の英語力を伸ばしたい親の少なくない数の欲望として、そういった傾向の思い込みが小なりあるということは、語学教師をしているので、目にする機会は、少なくない。程度が微弱なので、大事には至っていないというだけのことは、世の中には、結構ある。二次大戦発端の経緯として問題になる政権の大体は、その成立において、合法だ。程度が微弱なうちにどうにかしていれば、というのは、常に後から言われることである。それをみつけるのが難しいんだよ、というのが、もちろん最大の、難点だ。
親が子供に英語で話しかけるというのがある。格別の英語力でもない限り、止した方が、いいだろう。もちろん、なんとなく外を散歩している時に、可愛い野良猫をみかけ、普段なら「猫さんがいるよ?」と言うところ、気まぐれで「あ、キャット」なんて言ってみて、「キャット?」なんて子供に首を傾げられるなんていう情景は、間違いなく、微笑ましい。そこから子供の方がなんとなく興味をもって、「あれは?」「ねえ、あれはなんて言うの?」なんて訊くようになってきたら、親としては、結構うれしいところである。「日本語では信号、英語ではドッグ、ちなみにスワヒリ語ではねえ、フレディ・マーキュリーって言うんだよ」なんて子供を騙して遊ぶのも、楽しみの、一つである。特に年齢が一桁のうちは、楽しむということは、良いか悪いかは別として、子供が動く動機には、非常に強く作用する。老人も似ているので、面白いところだが、そう考えると、どちらかといえばその間の年代を統御している自制心のようなものこそ、不自然なものなのかもしれない。少し適当だが、知性とか、理性とか言い換えても、いいだろう。人間の条件、かもしれないが、とりあえず、朝三暮四ということは、あるはずで、つまりは時間ということが念頭にあると、自制というものはある程度効くということだ。年齢一桁の子供はたぶん10年は生きていないと思うので、やはり時間感覚に乏しくても、仕方ない。また老人は老人で、残りの時間が少ないので、刹那的に欲望を追求するのも仕方のないこととも言えるだろう。刹那的な老人、というのもなんだか妙にスタイリッシュに映る語の羅列だが、ただ、子供と違って老人の場合には、来世とか輪廻とか解脱だとか天国とか地獄とか最後の審判とかそういったものものについて思い巡らせる余地があるので、そこまで好き勝手にはできない、という自制を効かせることができ、というようなことをまあもう少し単純に言うと、子々孫々の繁栄へ自らの生を滲ませる、なんて表現が可能であり、簡潔に表現すればするほどものごとは一見わかりにくくなるということは、哲学書を捲ってみる、という想像をすれば、わかるだろう。実際に哲学書を捲ったことのある人なんて、世の中には、ほとんどいないと思う。アイスランド語の教科書を捲ったことのある人となると、もっと少ない。老人の割合が増えると老人優遇の政策が増えて若年者が割りを食う、というもっともらしい話が、中学受験者向けの問題集などにも正答として載っているが、精確ではない。これも時間を考慮する必要があって、確かに一時直接的には若年者が割りを食うことは事実だが、長い目で言えば、言えるのか? という疑問はさておいて、些か失礼かつ不謹慎な物言いなのかもしれないが、具体的に言えば、おじいちゃんおばあちゃんの財産は、その子や、孫へ、いずれは降りていく。例え存命中であっても、身内の老人が色々と満たされていれば、種々様々な恩恵を下の世代は受けることができるだろう。このレベルの話であれば、問題は、どちらかといえばどの年代を優遇すべきかということよりは、年代を貫く縦の関係が有効に機能しているかいないかということで、いまの社会で非常に割りを食うことになるのは、平均すれば、例えば、天涯孤独の身とかである。まあ、とはいえ、現代の大体の老人には子や孫がいるだろうに、どうしてこう老人優遇の風潮が強いのだろうと、素朴な疑問は、否めない。個性や、自己実現や、自己主張に最も長けているのは、いまの老人世代だろう。いまの社会でそういうことが叫ばれているのは、この老人世代がそういう社会を目指そうと、そういう社会がいいだろうと考えて、設計し、実現運営してきたのだから、当の発案者がそういった思想を体現しているのは、あたりまえといえば、あたりまえのことである。普通にしてれば日本語で言うところを、子供に、英語で言うのは、よくない。日本語で言うべきことを言った後に、英語の知識を添えることは、悪くない。個人的には、いいと思う。わかるだろうか? 子供の学習力は、強い。
予算が100円あり、いままではそれをすべて日本語へ費やしてきたが、英語を習うと、80円:20円とか、50円:50円とかになってしまい、結果的に、日本語力が痩せ細るのではないか、という懸念を、多くの大人が抱いている。そのまま絞め殺してしまえばどうだろうと偶に思うが、消費税が上がる、となると、遺憾の意を表明する大人が多いことと変わらない。個人的に疑問に思うのは、消費税が上がった場合、問題となるのは、消費税が上がったことではなく、それを相殺するだけの収入の増加が見込まれないということなのではないかということだ。みりんの値段が10円上がっても、収入が同時に10円増えれば、なんの問題もない。大人はなかなかこういう思考ができないが、子供には、普通のことである。成長により躰が大きくなったことでセーターの袖が短くなったからといって、腕を縮める整形手術をすることは、ないだろう。その時の躰に合ったセーターを買い直すだけである。これが、子供の世界だ。もちろん、体力ということはあるし、1日は24時間しかないから、限度というものはあるが、例えば日本語力の着実な向上を目的とし日本語以外の言葉を一切習わせないとしても、特に日本語力の向上に資さない時間というのが、充分にあるはずで、もし望むのであれば、英語に限らず、いろいろな外国語へ、そういう時間に、触れてみてもいいのではないかというのが、ようやく話が戻ったが、冒頭で挙げた主張だった。―――た、なんて表現したからといって、既にその主張を過去のものとし現在では反故とする立場にいるというわけでは、もちろんのこと、ない。多言語学習は兎にも角にも悪だ、という主張は、「――た」は須らく過去の事柄を表すと勘違いしていることと同じくらいに、莫迦莫迦しいことであり、「この日曜日は数学の勉強にすっかり費やすことに決めたから、部活も御稽古事も友人との遊びも家族との外食もすべてキャンセルして一日中自室にこもることにした!」みたいな時は、大体が、経験的に、ベッドでグーグー:スマホクイクイ:おやつタベタベ:勉強=5:3:2:0くらいになるものだ。大人になると、この逆の事態が頻発し、「今日は1日ゆっくりする!」と固く決意した日ほど、なにか部屋の大掃除をし始めたり模様替えをしたりなにか新しいことを始めたくなったりするもので、特に珍しいことではないだろう。多才な人、というのはしばしばテレビなどで賞賛されているが、どちらかというと、そちらの傾向の方が、自然で、普通なのだと思われる。だから、「この道70年」みたいな人生一意専心型の職人などは、賞賛されているのである。野球の二刀流なども、随分とやっかみの声が多く、プロのなかでそういう声が強いのはわからなくもないが、ただ端からみてスーパープレイに喜んでいればいいだけの素人の間でも、「一つのことに専念して欲しい」という声が強いことは、不思議であり、その理由は、普通の人の多くは、「余裕をもってなにか一つのことに集中しよう」と思った時ほど、だらだらと怠けてしまい、大した成果も上げられないことが多いということを、経験的に、知っているはずだからだ。普段から「あー忙しい忙しい」と言って一つのことにしか手をつけていない人ほど、自宅の居間でテレビを前に煎餅を齧っている時間が、長いはずである。絶対にそうだ、と御理解頂くためなら卑近な事例を描写してでも是非ともおみせしたいところである。
ポイントはなにかというと、本人が望むかどうか、これに尽きる。手持ちが5円しかなくて、10円のお菓子が欲しいとなれば、子供というのは、おばあちゃんの肩を叩くなり、お母さんの洗い物を手伝うなり、なんでもして、どうにかもう5円を調達してくるものである。若者も、大体がこういう感じであり、しかしながら、歳をとるに連れ、ズルをすることを覚え、「5円にまけてくれない?」なんて、言うようになる。こうなると、やはり日本語力は、落ちるだろう。繰り返すが、子供が言語を学ぶ時に大切なのは、いま既に学んでいる言語に費やしている時間を、新たな学習言語の追加によって、損なわないことだ。現在は日本語環境で過ごしていて、それを10とすれば、良く英語を習うということは、そこへ、3を足すことだ。「ポルトガル語って何?」「中国語、してみたい」―――すればいい。13へ、更に3を足し、5を、足せばいい。もちろん、くどいようだが、子供が望めばの話である。望まない場合、子供というのは、3を足せと言われると、10から3を引いて、そこへ新しい3を突っ込むようなことをする。つまりはこういうところは、大人と同じということだ。更に酷い時は、3を引けばいいだけの時に、6やら8やらを引いてしまい新たな3を突っ込む。結果として、学ぶ前は10あったものが、なにかを学んだ後には7とか5になっているなんてことが、しばしばある。学力崩壊というのは、こういう事態を指している。子供は、自ら望んでいる場合、そういうことはせず、10へ、ちゃんと新たに2とか4とかを足して、12、14と、着実に伸びてくれる。少なくとも日本の子供には、それくらいの余裕があるのが、平均である。ないとしたら、それは周りの大人の責任で、早急に、子供に余裕をもたせてもらいたい。ひょっとするとテレビの前でごろごろ煎餅を齧る時間が増えるだけかもしれないが、でも、子供には、そういうゆっくりとした時間が、必要だ。好きにしていいよ、と言われることで初めて、子供は、なにをすべきか、ということを、考え始める。その時に、頭のなかで、「ちょっと、いろいろな外国語をみてみたいな」という風に思いついてくれるなら、私はうれしい。ぜひ、教室に、きてください。歓迎する。
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