外国語学習について想う時、いつも夜を想い出す。それも真夜中であることが多い。学生時代の印象というのはそれなりに強いもののようで、それは外国語学部の忙しい生活のおかげかもしれない。
18時に大学の講義が終わる。
それからアルバイトへ行った。
家に帰るのは23時くらい。
シャワーから出て、お茶を用意し机に向かう。
時計は、24時。
真夜中だ。
そこから5時くらいまで、外国語の勉強をした。ひたすら単語を覚えたこともあったし、音読や書き取りに費やしたこともあった。一つの外国語に集中したこともあったし、複数の外国語をしたこともあった。外国語の音楽を聴きながら、休憩し、外国の建築写真や気に入りの画家の画集をみたりする。そして、数曲が終わり、また、教科書を開く。
青い窓ガラスが終わりの合図だった。教科書を閉じ、代わりに、いつも、窓を開いた。大学のすぐ近く、大きな公園に囲まれた一帯は、静かだ。土と木々の湿った朝の匂いが入り込んでくる。春は葉の碧、秋は甘い落ち葉の匂いを吸った。夏は早起きの蝉の声、冬は氷の、無音だ。疲れた部屋の空気を浚い上げ、鮮やかな青い空気を連れてきた。その色だけは、いつも同じだった。最後にもう一度だけお茶を淹れ、それが終わると、ベッドへ入り、目を閉じる―――9時には、再び大学にいた。一限の授業は、もちろん、外国語だ。
授業中、眠っていたわけではない。校舎は少し変わったつくりの建築で、教室には、天蓋からたくさんの陽が注いだ。周りには、その時の外国語により様々なクラスメイトがおり、明るい。決して、夜と間違えるような光景では、なかった。でも外国語について想う時は、やっぱり、夜のことを思い出す。
外国語は、独りで学ぶものだ。のちにルームメイトと暮らし、同じ夜、同じ家、同じ机で同じテキストを勉強している時でさえ、そういった印象は、消えることがなかった。光のなか、教室でも、食堂でも、広場でも、先生やクラスメイトと一緒に外国語を学んだが、それでも、消えることのなかった印象だ。みんな、お互い、そうだったろうと思う。いや、そうだったと、確信する。
日中の勉強が退屈だったわけではない。むしろ、あるいはもちろん、光のなかでみんなと学んでいる時の方が、断然、楽しかった。それはまあ、当然といえば当然だろう。ただ、思うのは、そういう光のなかの風景を、いま、こうして、眩しいくらいに鮮やかなものとして想い起こすことができるのは、あの、暗く、長い、独りの夜があったからではないかと、そう思う。変わることのない、風景。
外国語の、真夜中。
//fine​​​​​​​
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