について語りたい人は、とても多いみたいだ。知りたい人も、同程度いる。ここも、そうなのだし、別に批判しているわけじゃない。たぶん、実際に外国語を勉強してる人の数よりも、多いんじゃないか。具体的な語学書よりも、外国語学習についてのハウツー本の方が、よく、売れているはずだ。なにがそんなに、魅力なのか?
一番の魅力は、なんといっても、外国語上達法について考えている時は、外国語の勉強をしなくて済むことだ。だって、しょうがないじゃん? 効率的に学ぶためには、方法が、大事でしょう? もっともだとは、まあ思う。
もう少し話の抽象度を上げると、「教育の話」が、これに相当する。「教育論」というのは、常に、白熱するものだ。だって、教育論について熱く語っている間は、勉強しなくて、いいんだから。子供は大体そういう風に、みている。「勉強しなさい」と言われても、ちっとも勉強しないのは、そのためだ。だからといって、「勉強してる親の背中をみせなさい」という教育論も、結局のところ、白々しい。子供は、そんなに、莫迦じゃない。
勉強、したくないんだろうな、というのが、遠くからみた時の、感想だ。なんてダメな人たちなんだ、とも、特に思わない。遠くからみれば、大体のものは、綺麗だ。富士山だって、遠くからみるものだし、登った時は登った時で、みつめるのは、遠くだろう。苦労して登ってまで、足元をみつめる人は、あまり、いないと思う。したくないなら、したくないで、いいのではないか。結局、人は、したいことしか、しないのだから。大人になってもそんなことでは困る、と思われるかもしれないが、大人になって身につくのは、したくないことをしているようにみせかける技術であって、したくないことをするようになるわけでは、ないだろう。少なくとも大人であれば、誰にでも、わかることだ。
したくないことを、しているように、みせかける―――その際に、「方法」というのは、少なからず、役に立つ。実は、子供も、このことに、気づいている。だから、いずれ、大人になることが、できるのだ。もちろん、学んだからで、大人は、これを褒めてあげなければならない。しっかりと、自分たちの背中を、みていてくれたのだから、喜ぶべき、ことだろう。
方法については、それに基づいて成功した人しか知らない、という信憑がある。だから、「ちゃんとした方法を知っている」というのは、そのまま、その道で成功したか、あるいは、成功する蓋然性が極めて高いか、その辺りを示すことになる。「あえて」その道は歩まなかったが、歩んでいれば確実に成功したであろうという印象を与えることも、可能だ。そういう可能性を、たくさんちらつかせると、実際よりも随分すごい人にみえる、というのは、わりと多くの人が経験するところだろう。だからこそ、ハウツー/成功体験本、というのは、いつの時代も、相応の人気がある。
ただ、どれだけハウツーに通じても、それだけでは、わからないことがある。「実際に、してみないと、わからないこと」というのが、それだ。これはまあ、字義的に、当然だ。実際にしてみないとわからないことは、実際にしてみないとわからない。そして、これがわかっている人は、相手に、その経験があるのか、ないのか、よくわかる。相手に自分よりも圧倒的な経験がある場合でも、それが圧倒的だということくらいは、わかるし、自分よりそれほどでもない場合は、それがどれくらいなのかと、わりと仔細にわかりも、する。とはいえ、感想は、素朴であり、それはつまり「早く、したら?」というものだ。「どうして、しないの?」と言い換えることも、できるだろう。
これだけは、「方法」しか知らない人には、想像できない世界だ。また、遠くからみると、方法しか知らない人たちと、実際に経験したことがある人たちというのは、くっきりと、別れている。方法しか知らない人たちは、延々と、方法について熱く語っているし、経験というものを知っている人たちは、わりと静かに、結構それぞれ、さらに経験を積んでいる。その様は、まあ、水と油のように、きっちりと、別れている。あまり、混じり合うことがない。だから、前者は、常に白熱しているのだし、後者は、静かなのだと思う。どっちがいいか、という話でも、実は、ない。
どっちでも、いいと思う。サラダ・ドレッシングというのは、両方、入っているものだろう。溶け合ってはいないが、それで、充分に、美味しい。
美味しいのは、誰か? 考えるとすれば、そこだ。
//fine
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