職人は、道具を大事にする。現代では、スポーツ選手なんかにも、道具を大事にする人が多い。また、この国では一般に、道具は大事にすべきという信仰というか習慣がある。大事にしないと、道具の方から、お化けになって会いにきてくれたりもする。
しかし、どういうわけか、「言葉は道具だ」と人が言う時、そういった、「道具は大事にすべき」という習慣というかニュアンスは、忘れ去られてしまうようで、いささか悲しい。お化けになって会いにいこうか、とまでは、幸い、思ったことはない。
たぶん、この時あるのは、「言葉に使われるのは莫迦げている」というニュアンスなのだろう。外国語に振り回される、と言い換えてもいいかもしれない。「外国語は道具であって、それを使うのは、私だ」といった具合に、主従関係をはっきりさせておきたいということなのだと思う。「外国語は道具だ」と人が言う時、やけに達観した風に、あるいは変に余裕ぶってわかった風に、みえるのは、そのせいだ。主人たるもの、常に余裕をもって、優雅に、ということなのだろう。
こういった態度は、「油断すると飲まれてしまう」という恐れの裏返しだ。怖いので、結果、常に気を張った状態となる。でも、このことは、「放っておくと、言葉の方が強い」ということも、同時に示してしまっている。「道具に、使われてしまう」と、感じているということだろう。しかし、それが自然であるなら、仕方ないのでは? と思ったりする。「いや、でも、道具に使われるなんて、嫌じゃん?」と思われるかもしれない。じゃあ、こう考えたら、どうだろう;「言葉は、道具ではない」。
「空気は、道具である」。こう考えると、たぶん、ほとんどの人は、「空気という道具に使われている」ことになるはずだ。でも、そのことに憂鬱になったり、そういった事態について常に怯えているという人は、それほどいないのではないかという風に、観察される。これは、多くの人が、「空気は道具ではない」と考えているからだろう。言葉についても、同じように考えた方が、自然なのではないだろうか。
外国語は、別に、ただの想像だけど、私たちを支配しようと企んでなんかいない。ネクタイを締めて会議を開き、「さて、人間たちを我々外国語が支配するためには、どういった施策が必要か。まずは英語君から、どうぞ」なんてことは、たぶん、してない。そういうことをするとすれば、それは、人間だ。
「外国語産業関係者に振り回されるのは嫌だ」。これは、真っ当だ。結果、外国語産業に関わらずに済まし「外国語は道具だ」と恐れる人と、外国語産業に振り回されて「道具に使われた」と嘆く人の、2通りが生まれる。これも、当然の成り行きではないかな、と思う。
大事なのは、外国語と外国語産業は、別だ、という認識だ。実際に、この二つは、ほとんどなんの関係もない。「高校の時、国語の先生がすっごく嫌な人で、国語が大嫌いだった」。こういう人は、少なくない。というか、かなり、多いのではないか。でも、よく考えると、国語の先生と国語という教科は、別に、なんの関係もない。そういう経験が示すのは、その、国語の先生が嫌な奴だったというだけのことであり、国語という教科そのもののつまらなさや無意味さを、示していたわけでは、全くない。これは、逆も同じで、生物の先生が好きだから、生物が好きだった、というのは、少し冷静になった方が、いいだろう。少なくとも、自分はなにに惹かれているのか、ということについては、精確に把握しておきたいところである。いずれにしても、こういった仕組みは、教育と教育産業とか、ある街の住人と街全体の価値とか、ほとんどなににでも、あてはまる。大事なのは、人で選ばない、ということだろう。
以上は、外国語教室の、宣伝である。
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