なんでもいいと思うが、あえて言うなら、ない方がいいような気もする。外国語学習はある程度の期間続けた方がいいので、そんな気がする。自分がなにか長く続けているもののことを頭に浮かべてみて欲しい。その、きっかけや理由って、なんだろう? あるといえばあるが、正直、あんなに長く、あるいは、あんな昔から現在まで、続けている動機というか理由としては、弱い、という場合が多いのではないだろうか。
そんな気がする。明確な目的がある場合、それが達成されると、そこから離れてしまう傾向が強い。目的が明確であればあるほど、「無理」というのも、また効くので、たぶん、本能的に、目的が達成された暁には、「そろそろ休ませて下さいよ」ということを躰の方から訴えてくるのだろう。その声には、無意識ではあれ、従わざるを得ない。人間は基本的に、怠け者だ。少し、外国あるいは外国語についての記憶を思い返してみる。
幼稚園の年少の時に、湾岸戦争が起きた。クウェートという小さな国をイラクという国がいじめているのだと先生が説明していたのを記憶している。幼稚園年長の時には、フィンランドから同年齢の留学生(?)がきて、ホームステイしていった。近所の公園などで一緒に遊び、幼稚園ではフィンランド語の歌などを歌った(覚えた)。妖精みたいだな、という印象を抱いていたのを思い出す。春で、白いサマードレスを着ていた。高原の、春だ。寒くないのかな? みたいな。フィンランド人だったからといって、別にムーミンみたいな容姿だったという意味では、もちろん、ない。
外国や外国語についての最初期の記憶というのは、これくらいだ。小学生になってからは、そういったことについては、ほとんど忘れて過ごし、卒業文集でフランスにいってみたいと書いたくらいだ。中学生の時は、外国についてなど完全に忘れたまま生きていた。なんの記憶もない。次に思い出したのは、高校になってからで、夜更かしをする際につけていたテレビで、外国語講座をやっていたことに始まったと思う。イタリア語を始めた。
でも、どうしてイタリア語を始めたのか、覚えていない。テレビを観ていて興味をもった、といえばそれらしくきこえるが、どうして興味をもったのか、わからない。テレビでスキープレイヤをみたからといって、スキーをしてみよう、と思ったことはない。たぶん、大した理由なんてなかったのだと思う。ただ、イタリア語は、その時から10年以上学習を続けている。いまも、している。そして、いまは外国語に関する仕事をしたりなんかも、している。
役に立つから、という理由で英語を始めさせられる子どもが多いみたいだ。まあ、いいんじゃないかと思う。子どもはそんな理由は覚えてないし、だから、きっと、続けられるだろう。それに個人的には、英語はとても役に立つという経験をしている。英語がわからなければ、チェコ語やリトアニア語やフィンランド語をいまのようには学べなかったし、外国で外国語を使い外国人と話している時など、ふと、英語に切り換えると、なんだかちょっと、ほっとしたりする。大体こちらがそう思った時は相手もそう思っているので、なるほど英語は国際語なんだなと、変に実感したりする。
そういえば、英語を始めたきっかけって、なんだろう? これは、多くの人が、同じだろう―――いつのまにか、始まっていた。結局、いつまでも気になるものって、こういう風に始まっているんじゃないだろうか。具体的に学習してなくたって、英語のことがなにも気にならないなんて人は、いないと思う。視界の片隅でも、それが入ってさえいれば、いずれ芽がでる可能性は、否めない。きっかけなんて、無理にみつけなくていい。それは、いずれにしても、必ず自分を支えていてくれる。きっかけというのは、結構、寛容で、優しいのだ。きっかけは、みつけていても、いなくても、その優しさは、変わらない。「どうして、こんなことしてるんだろう?」。
そう思った時には、もう、それは、視界の何処かに、必ずある。
//fine
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