随分と意味のある人生を歩まれているようで、なによりだ。さぞや人類の発展に資し、未来に尽くしてくれているのだろう。尊敬の止むところがないし、羨ましい限りである。
別に思春期の文学青年のようなことを言いたいわけではないけれど、人生って、意味ある? なんてわりとよく、思わなくもない。まあ、人生の話をしているわけではないのだろう。きっと、「自分の生活」という程度の意味なのだろうと想像する。だから、本当に訊きたいのは、「自分の生活にとって、外国語って、意味あるの?」ということだろう。あまり応えたくはないが、それでも応えなくてはならないなら、こうなると思う;「知らないよ」。
だって、まあ、わからないもの。自分のことでしょう? と思う。その人の人生において、外国語が意味あるのか、ないのか、そんなこと、わからない。たぶん、興味もない。こちらが決めるのも、可笑しなことじゃないだろうか。責任をとりたくないだけでは? なんて思われるかもしれない。別に、とってもいいけど、というのが、応えだ。でも、一生、私がその責任をとって、いいのだろうか? と思う。そんなに、私のことが好きなのだろうか? たぶん、違うだろう。外国語講師というのは、別に、神の愛に基づいたキリスト教の伝道師でもなんでもないのである。それにいまどき、伝道師だって、そんなに親身になって、親切に、相談者の趣味嗜好人生計画等々計算して、最適解をだしてくれなんて、しない。そういうことをしてくれる人が、仮にいるとしたら、ちょっと、怪しいんじゃないか、と思った方が、賢明なのではないか、なんて気がする(若干の、経験談だ)。
少し、冷たいだろうか。でも、そう思われようと、無理には、誘えない。ちゃんとしようとすれば、それなりに冷たいし、寒い道だからだ。時には凍えそうになるし、実際に凍えて倒れてしまった人も、知らないわけではない。とある先生が言っていたことだが、「人は憂鬱になると、外国語ができなくなる」そうだ。正しいと思う。さらに付け足せば、「外国語をしていると、憂鬱になる」。
なんだか、悲惨だ。でも、これは仕方ないことでもある。外国語をしていると、色々なことがみえてくるからだ。外国語学部出身だ、なんて言うと、在学中ずっと、動詞がどうだ時制がなんだと、そんなことしかやってないと思われるが、そうではないことは、実際にある程度外国語をしたことがある人なら、わかるだろう。そういう、やっかみこそ、自分が工学や経済しか目に入っていなかったことを証明してしまっていることに、気づくことがない。外国語を学ぶということは、それとは、違う。文化や歴史、科学など、文理を問わず、様々なことに責任を感じるようになる。言葉について学ぶというのは、そういうことだ。文化、歴史、科学―――はっきり言って、これは人類が成してきたこと、すべてだ。
とても小さい子供は、あまり憂鬱にならない。みえているものが、少ないからだ。一流のスポーツ選手などは、あえて人間のこういった傾向を利用して、視界に入るものを少なくして、自分のパフォーマンスを下げないように努力している。でも、人によっては、それこそが、意味ある? と思ってしまう。外国語学習の、極北だ。
寒いなあ―――でも、寒いと、冬は、空気が澄んでいる。周りには、誰もいない。電灯も、ない。夜なんか、真っ暗だ。ただ、その代わり、星は綺麗だ。月も、くっきりとみえる。吐く息は白くても、吸う空気は、美味しい。この地球は、直上の空を中心にして、回っている。そういう、風景。悪くない、と思えるか、どうか。決めるのは、自分だ。
外国語をして、意味あるか?
//fine​​​​​​​
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