外国語をしている、なんて言うと、しばしば「日本語力」を疑われる。「疑われる」のが「しばしば」なのであって、疑ってくる人は、「常に」疑ってくる。結果、こちらとしては、「いつも」疑われているような気分になる。できるだけ、「すぐに」離れるようにしている。
こんな具合で、常に疑いの眼差しを向けられ、嫌な思いをしているので、人の言葉遣いに対しては、非常に寛容になる。疑いの眼差しは、向けないようにしている。鬼の首をとったかのごとく、「間違ってる!」とか「可笑しい!」とか、そういう風には言ったことがないと思う。可笑しいなら、あとで、こっそり、一人で笑っておけばいいことだからだ。
言葉遣いについて、細かくみれば、ほとんど、いつも、多くの人が間違えている。話し言葉はもちろん、書き言葉だって、そうだ。語と語、節と節、文と文の繋がり、助詞の使い方、語の意味についての思い違い―――数え上げれば、切りがない。間違っているとまではいわなくても、改善の余地は、ほぼ無限にある。ダ・ヴィンチは、終生「モナ・リザ」を手放さず、加筆修正を続けたそうだが、そういうことをしてきた小説家だって、たくさん、いるだろう。言葉にも、「キリ」はないのだ。
一体、いつになったら「まともに」日本語ができるようになるのだろう? こういう人は、大体、外国語どころか日本語についてすら、あまりちゃんと考えたことがない。日々の生活で自分が使う日本語が、すべてであり、神様なのだ。あるいは、かつて外国語を勉強したことがあり、とても嫌な思いをしたかである。このことについては、同情する。だから、早く元気になって、もっと色々と考えてもらえればと思う。
日本語しか勉強したことがないというのは、日本語という海を、船の上からしかみたことがないということだ。対して、外国語を勉強するというのは、海のなかから日本語をみたり、空の上からみたり、海なんか全然みえない山のなかで老人から海についての伝説をきくということだ。船の上からでは、海が塩辛いことは体験できないが、海に潜れば、潮の味くらい、わかるだろう。とても、しょっぱい。多角的な視点が、得られるだろう。
「どうして?」と思うかもしれない。「どうして外国語をすることで日本語についての理解が深まるの?」と思うだろう。でもまあ、そういうものなんじゃないか。
もし世界にパンダしかいなくて、パンダの研究者もパンダだったら、たぶんその研究には、「パンダは四足歩行だ」という記述は、ないんじゃないだろうか。そこに人間がひょっこり現れることで初めて、「あ、二本足で歩いてる…そういえば、俺たちは四足歩行だなあ」なんて、考えるんじゃないか。この発見は、パンダの研究にとっても人間の研究にとっても、きっと、有益だろう。
それからは、夜の竹林を笹を求めて歩いている時、しみじみと「四本足で歩いているなあ」と感慨に耽けるようになるに違いない。考え過ぎて、「いつもの歩き方」がわからなくなることも、あるだろう。「どうやって歩いていたっけ?」―――すると、まあ、転ぶわけだが、気にすることは、たぶんない。お腹が空いているなら、とにかく歩いて、笹を探すしかない。そのうち、「まともな歩き方」を思い出すだろう。
でもそれは、いままでの歩き方とは、ちょっとだけ、違うはずだ。
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