方言の話をすると、盛り上がる。経験的には、老若男女が問われることもない。実際、結構おもしろいと思う。わりとよくする。別に良いとも悪いとも、思わない。好きにすればいいと思うし、好きにすればいい、とか言われる筋合いのものでも、ないだろう。なので、好きにしよう。
みんな、好きにしている。でも、どういったわけか、方言となると、みんな、その語り口において、一定の傾向を示しているような気がする。好きにしているはずなのに、みんなその口ぶりが、似ている。
つまり、やけに自信満々なのだ。確信に満ちている、と言ってもいい。「自分に日本語力があると思うか」という質問に対しては、こちらが引くくらいに自信がなく、謙遜するのに、この差は一体どうしたことかと不思議に思う。
「それはこう言う」「あっ、違う違う。そんなことは絶対言わない」「そんなものは寡聞にして知らないねえ」「正しくは、こうだよ」―――。若手の大学講師か、やる気のないベテラン教師のような、そんな口調で語る人が多い。
方言って、なんだろう? 両親が熊本と青森の出身で自分が長野県で生まれ育った場合など、じゃあその人の「方言」って、なんだろう? 何弁? 熊本弁か津軽弁なんじゃない? それか、諏訪弁? んー。じゃあ、さらにこう付け足せば、どうだろう。祖父母はそれぞれ広島と京都の出身である場合は、どうだろうか? 両親が何弁を話していたのか、結構、アヤシイんじゃないか。
少し、極端だったかもしれない。しかし方言というのは、多かれ少なかれ、こういった切れ目のない曖昧な分布をしている。人の往来が激しくなった現代ではなおのこと、この傾向が強まっている。「本当に純粋な〇〇弁」の環境で育った人なんて、あまりいない。いるとすれば、外界との接触が一度もない未開の部族か、近接するコミュニティとの往来がとても限られていた昔からタイムトリップしてきた人くらいじゃないだろうか。「純粋な〇〇弁を話す」と豪語するクラスメイトの両親の出身地が隣町だった、なんてことは、ザラにある。
年齢や性別だけでなく、双方の関係、立場、周囲の状況、他にも様々な要因によって、その人の言葉は形成されている。一回一回の発話についても、この辺りの事情は変わらない。それに人は複数のコミュニティに所属するのが普通だから、それぞれのコミュニティで形成された感覚の総体として、その人の言葉というのは、現れてくる。わりと、複雑なのだ。だから、方言について確信に満ちて語る人のことを莫迦にしてはいけない。こちらだって別に、よくはわからないのだから。せっかく盛り上がっている場へ、わけ知り顔で水を差すようなことは、しない方がいいだろう。楽しく、話せばいい。こっちだって、楽しいんだから。そして結局のところ、研究だって、そういう「おしゃべり」のなかからしか、始まらない。
フィールドワーク、というのだが、もちろん、研究は、研究者の、仕事だ。
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