発音は、大事である。これは言うまでもない。言葉の基本は、音である。文字のない言語というのはあるが、音のない言語というのは、基本ない。基本、と言ったのは、例えばラテン語や古典ギリシア語を話す人は、現代では、ほとんどいないという意味だ。枕草子や源氏物語の原文のような口調で話す日本人は基本的にはいないということと同じなり。これは、少し前に流行ったギャグアニメにでてくるカラクリ・ロボットの口癖だ。少し、というところを強調しておく。
最近、「発音なんてどうだっていい」という話が増えてきた。長らくこの国では、「ネイティヴのような発音ができなければ絶対ダメだ」とされてきたことの、反動だと思う。これは、仕方ないかなと思う。「ネイティヴのように発音する」なんて、基本、無理だから。だってネイティヴじゃないし。そもそも「ネイティヴ」って言葉遣いが可笑しいよね、日本でしか通じないし、という話はおいておくとして、「発音至上主義」への反動があるのは、仕方ない。けれど。けれど、だ。
下手な発音は、やっぱり、かっこ悪い。「いや、内容さえよければいいんだよ」。確かにそれは、前提だ。でも、それって、当然のことでもある。単なる前提でしかない。そんな風に言われると、「普段あなたは、日本語の発音や流暢さで、内容の空虚さを誤魔化しているのか?」なんて、疑ってしまう。内容さえあればいい、というのは、そういうことだ。相手を莫迦にした態度と受けとられる。意図的に莫迦にしている人もいるので、そういう場合は、さっと身を引く必要があるだろう。
発音が上手くいかないのは仕方ない。でも、そのことと、それでいいと開き直ることは、なんの関係もない。仕方ないことだからといって、それでいいと開き直っていいわけではない。それは全然、論理的じゃない。美味しいものを、ついつい食べ過ぎてしまうのは仕方ない。でも、だからといって、際限なく食べても構わないというのは、違う気がする。それと、同じことだ。
発音は、大事だ。でも、なかなか上達しない。時間がかかる。「どうせ無理だ、ネイティヴじゃないし」という諦念に駆られる。「ハーフ」なんかに会うと、ほとんど絶望的な気持ちになる。よくきくと、ハーフだって色々なのだが、まあ、もう発音なんて、どうでもいいかな? なんて思ってしまう―――しかしここで、なんとか踏み留まって欲しい。とても微妙なところだが、それが難しいことと、だからといって放棄しても構わないと思うことは、微妙に違う。外国語上達に際して大事なことの一つは、この「微妙さ」に、辛抱強く付き合うことだ。
「それ、どう? 美味しい?」
「え? んー、微妙」
これは、比較的新しい用法だ。「あまり良くない」という意味だと思うが、もう少し長いスパンでこの語をみると、「結構良い」という意味があったことにも、気づくだろう。
外国語学習は、微妙だ。
胸の内で密かにそう思っておくのも、きっと微妙に違いない。
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