んー、と思ってしまう。確かにダメだと言う人は多い。ダメとまでは言わないが、欧米の研究でもそういった傾向が多数派だ。そして、例えばヨーロッパの人などは、ミドルティーンくらいになれば複数の言葉をなんとなく操ることができるようになっている。その数は、少なくない。それもたぶん、「良い発音」なのだろう。「それに比べて日本の英語教育ときたら…」というのは、いつもの話だ。
この説を認めると、ツライことが幾つかある。例えば;
・年齢が二桁になってから外国語を始めるのが憂鬱になる。「休日の午後にゆったりと」「子供と一緒に」「子育てが一段落してから」「定年してから」なんていうのは、モッテノホカだ。
これは苦しい。ほとんどの人にとって、苦しいのではないか。でも、だからといって、「発音なんてどうでもいい」「伝わればいい」というのも、なんだか違う気がする。もちろん場合によっては、それでいい。ピジン、いわゆるリンガフランカというのは、そういう発想による。ビジネスで急に必要になった時、旅先で困った時などは、そういう姿勢でいいと思う。いいと思う、とか言われなくても、皆さん個々、そのようにすると思う。でも。でも、だ。テレビの旅行番組をみながら煎餅をかじっている時、ふと、フランス語やってみようかな? と思った時、あるいは、うっかり英語などなにもやらせないまま子供が年齢二桁になってしまった時などに、「発音なんてどうでもいい」「伝わればいい」というのは、いささか乱暴であり、つまらないのではないか、なんて思ってしまう。
生活上、不可避的に、外国語が必要になった人には、基本、方法も励ましも要らない。必要、というのは、そういうことだ。私が普段、気にしているのは、「とりあえず、してもしなくてもどうでもいいけど、なんだか外国語のことが気になる」という場合だ。学生も含め、ほとんどの人が、この場合に当てはまるからだ。
大学の時から、周りには外国語に流暢な人がたくさんいた。もちろん発音も上手く、電話であれば母語話者と区別できないというレベルだ。スパイにもなれる。そういう人たちは、小さい頃から習っていたのか? でも、よく考えてみて欲しい。一体、日本のどこの一般家庭に生まれれば、小さい頃から、グルジア語やチェコ語やビルマ語やウクライナ語やヒンディー語を習うことができるのだろう? 「どうせ、才能のある人ばっかりなんでしょ」と思われるかもしれない。まあ、否定はしない。一流の研究機関であったから、その可能性はある。しかしそれにしても、「才能のある人が多過ぎないか?」という感じは否めない。才能というのは、あんな風に、春のタンポポみたいにポカポカどこにでも生えているものではないという気がする。そんなのは牧歌的に過ぎるし、才能というのは、もっと冷たく鋭いものだろう。「なにか特別な方法があるのでは?」。いや、ないです。これだけは、確かに言える。
上手に発音できるようになると、気分がいい。上手に発音できるようになった自分の声を録音して何度も聴いてウットリした方がいい、とまでは言わないが、その充実感は忘れない方がいいような気がする。まるで、別の人間になれたような気さえする。別の人間になるということを考えれば、外国語の発音に凝るのも安いことだろう。別の人間になりたければ、外国語の発音に凝るといいと思う。ついでに、「本当の自分」も、わかるだろう。外国語を学ぶというのは、そういうことだ。なにも北海道の牧場やインドのガンジス川にいくだけが「自分探し」じゃない。「ダメだ」とか「遅過ぎる」とか、誰が言う? そういう人には、「発音、間違ってますよ」と、教えてあげればいい。ゆっくり、聴かせてあげよう。
「発音は、いつから始めたって、上手になれる」
//fine​​​​​​​
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