チョコレートを知らない人に、その味を伝えるのは難しい。じっくり味わってみると、ほとんど砂糖と変わらないような気もする。砂糖だけだとあまり美味しくないからバターやカカオで調整している、というようなことはつくってみるとわかるのだが、分析してその要素を告げてみたところであまり伝わることはない。ペペロンチーノは炭水化物と塩と油を摂取するためにニンニクと唐辛子で味を調整しているが、ペペロンチーノときいて想像されるのは、たぶんニンニクと唐辛子の香りだろう。パスタと塩と油の味が堪らない、という理由でペペロンチーノを好く素材派なグルメはあまりいない。ニンニクと唐辛子なしで食べられるのだろうか? たぶん、そういう話ではないだろう。チョコレートの場合もこれと同じで、多くの人がカカオをその味として連想するが、カカオだけ食べても苦くて堪らない。一頃カカオの塊みたいなものを眠気覚ましに摂取することが中高生の間で流行ったが、多分お洒落なイメージも相俟ってのことだった。確かにそうだな、と当時は思っていたのだが、最近ではあまりみかけず、廃れてしまったのかもしれない。食べた後に口のなかが真っ黒になるのがまずかったのだろうか。確かに大して美味しいものではなかったとは言える。
外国語学習には、〈イマ/ココ〉から離れる敷石としての機能がある。もちろんこの機能を有すのは外国語学習に限らない。多く教養と呼ばれるものの学習には、すべてこの機能があるだろう。教養が背景にあれば、〈イマ/ココ〉にない「もの-者-物」とコミュニケーションをとることができる。フランス語を用い、ドイツのクラシックについて、イタリアで、中国人と話すことができる、というイメージは些かばかり古い教養に纏わるイメージだが、コミュニケーションというのは基本的に常にしてこういうものである。コミュニケーションはいつも共通のメディアを必要とする。必要ではないかもしれないが、少なくとも「通じている気がする」とお互い感じるためには、共通の前提が必要になってくる。この時、〈イマ/ココ〉での常識が共通の前提としては不適合であるということは、想像に難くないことであろう。パリでセネガルからの留学生と話す時に、町内会の回覧板をもっていっても、なんの役にも立たない、というのは実は嘘で、役に立つところと、立たないところがある。町内会の回覧板の常識に、〈イマ/ココ〉から離れたところでもある程度普遍的に通用する部分と、通用しない部分がある、ということだ。これは別に一義的な外国とか外国語とかいうタームから離れても言えることで、例えば隣町に引っ越しただけで、ゴミだし規則の違いに戸惑うことも少なくない。燃えるゴミがだせる曜日が違っていたり、燃えるゴミとしてだせるものの区分が違っていたりする。しかし似ているところも当然あり、有料のゴミ袋を使わなければならないところは、変わらない。だからそれは比較的普遍的な傾向なのだろうと思っていいのだが、有料のゴミ袋が必要でない街も少ないながらあるわけで、完璧に普遍的な真理とは言い切れない。
〈イマ/ココ〉で通用している常識や慣習や法律が、「完璧に普遍的な真理とは言い切れない」ものであるということを間断なく実感していくという営みが、教養という行為の別名であり、なかでも外国語学習は、その筆頭に位置する。なぜなら常識や慣習や法律、あるいは文化や歴史といったことはみなすべて、言葉に基づくからである。「はじめに言葉ありき」と謳ったのは聖書だが、だから「言葉が違えばすべてが違う」。バベルのメタファーでわかるのは、私たちはみなバラバラであるということだ。これはなにも外国語話者とのコミュニケーションに困難を感じるという場合だけでなく、同じ言葉を用いる話者同士の間でも言えることである。常に私たちは「通じない」という場面に直面せざるを得ない。「通じない」とは、どういうことか? それはたぶん、「別の言葉」を使っているからだろう。「リンゴとって」と言った時、「ミカン」が返ってきたら、多分それは「通じてない」。この時にわかるのは、「同じものを別の名前で呼んでいる」ということで、このままの例が日本語話者間で現れることはあまりないだろうが、似たようなことはあるはずで、多く「通じない」という時に起きている現象は、簡単に言えばこういうことである。この時、「別のものを同じ名前で呼んでいる」可能性も生まれることになる。こういう事態は簡単に言えば、お互いに「別の言葉」を使っているという状態だ。「別の言葉」を使っていると、「通じない」。だから「同じ言葉」を模索する。片方だけで行うこともあり、お互いで行うこともある。こういう「作業」が、コミュニケーションの本義である。例え「コミュニケーションは成立しない」としても、コミュニケーションというのは、そういうものになっている。だから実は、「同じ言葉で話す」ということは、コミュニケーションでは「ない」。「通じる」ということは、コミュニケーションでは「ない」。「同じ言葉」で話し、「通じる」ということは、一日中鏡をみつめ続けるようなものである。玄関をでる時にふと鏡をみつめることは大事だが、ドアを開けずに一日中鏡をみつめていても仕方ない。鏡をみつめたことの意味は、ドアを開けた瞬間に初めて出来する。鏡のなかの「同じ言葉を話す同じ人間」とではなく、「別の言葉を話す別の人間」と接した時に初めて、「同じ言葉を話す同じ人間」の意味がみえてくる。鏡の意味が、掴めてくる。〈イマ/ココ〉から離れた時に初めて、〈イマ/ココ〉という場所は、生まれる。それまでは、鏡の世界に眠っているのと大して変わらない。そして鏡の世界ではなにも生まれない。鏡の世界ではなにも変わらない。鏡の世界から、でる必要がある。
ない、というのも一つの選択だ。〈イマ/ココ〉から離れる必要はないという判断も、許容されて然るべきだろう。教養という名の「別の言葉」は必要ない、と言っても構わない。これはメタファーだが、メタファーを使わずとも似た内容を記すことが可能である。つまり、「外国語という別の言葉は必要ない」? 応えよう。
外国語を学ばないということは、ただ砂糖だけを舐めているということと同じである。あるいは、カカオだけを、バターだけを食べているということと変わらない。まずくはないかもしれない。しかし美味しくも、ないだろう。砂糖、バター、カカオ、その他いろいろな材料の間を往還し、結び、溶け合わせることで初めて、その口のなかにチョコレートが生まれる。多分、それが一番美味しい。外国語を学ぶことは、美味しい。
これが、外国語を学ぶことの意味である。
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