老人と密に接していた時期が、三年ほどある。ほぼ毎日、常に数時間、接していた。仕事をしていたし、余暇にすべきことも数え切れないほどにあったが、それらを押し、欠かすことはなかった。いまの社会では、いくらお金を積んでも順番待ちであるか、さもなければ得られないようなことを、もちろん無償で、行った。別に頼まれたわけではないし、すべきであると感じられたからしていただけである。苦労にも感じられなかった。親類すべてに見捨てられていたということも、特に関係はなかっただろう。しかし、それが正しかったかどうかは、いまではもう、わからない。もう二度と、彼らと会うことはないだろうし、その消息を尋ねることも、ないだろうから。「外国語なんてしていても、偉くもなんともないんだからな。そんなものは、なんの意味もないんだ」。最後に投げかけられた言葉は、そういうものであった。
似たような言葉は、若い頃にしばしば浴びせられることがあった。職業柄、そういう機会は、少なくない。流石にチェコ語やイタリア語、あるいは帰国子女や偏差値の高い子供が多数を占めるクラスでは、「こんな勉強して、なんの意味があるのか」なんて訊かれることは、一度もなかったが、そうではない子供をみている時、あるいは彼らがそのまま成長したような大人と接している時、「なんの意味があるのか」という類の言葉については、陰に陽に無数に浴びせられた記憶がある。そういう言葉を発してしまうということに対して、莫迦だな、と思うわけではない。可哀相だとは思うが、もちろん、いけないことだ、と思うわけでも、ないだろう。ただ、そういう言葉を耳にすると、こちらとしては、きこえるわけだから、ある種の意味を了解するし、そこから、思うところも、なくはない。感じることがある、ということだ。
〈宗教や哲学や芸術、文学や歴史についての学びが、人生にどういう役を果たすのか〉〈政治や経済について学んで、なんの価値があるのか。私の人生と、関係があるのか〉〈数学や自然科学についての知識の有無が、具体的に、生活にどのような影響を与えるのか〉〈外国の歴史や文化、外国語について学んで、なんの意味があるのか〉―――もちろん、こちらには、解答がある。ただ、人がこういう問いを発した時、それは、本当にその解答を求めているわけではないということもまた、こちらには、知れている。だから、そういう問いが発せられた時、応えることは、慎むことにしている。そしてただ、ひたすら、こちらとしても、静かに、疑問に思うだけである。
「宗教や哲学や芸術、文学や歴史、政治経済や自然科学等々、そういったすべての人間の偉業について、〈意味がない〉と判断する人々に囲まれた人生、そういう人たちが生み出すものだけに囲まれた生活、それに、どういう意味があるのか?」。こちらにはほとんど、〈人間の人間性には、なんの意味もない〉という意味に、きこえる。喜びも悲しみもない、怒りも笑いもない、なにかを汚いと感じることもなく、だからもちろん、なにかを美しいと感じることもない、そういう人生こそが、素晴らしい―――そう言われているように、感じる。だから、やはり、疑問に思う。ただ素朴に、知りたい。〈そういう人生に、どういう意味があったか〉。
皆目見当が付かない。
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