教室を開いて1年が経過したけれど、既に巣立った生徒が何人かおり、あるいは未だ飽きもせず通い続けている生徒がいるということは、素直にうれしいところである。ただ、少しだけ疲れることもあり、まあ推されるとは思うが、経営的なことである。とはいえ実は、経営的なことと言っても、生徒がこなくて困っているとかそういうことではなく、嫌がらせというか、そういうのがとても多いということに、疲れているということだ。法的に対応できるところはするのだが、まあまだそれでも残るところは残念ながら、残ってしまうから、疲れはする。
教えたいことがある。
誰かこないかな、と待っている。
だから誰かが訪れたら、歓んで、迎え入れる。
ただそれだけのことなのだが、どうも「それだけのこと」とは考えてはいない人が、世の中にはとても多いみたいで、なんというか、暇だな、と思ってしまう。
もう随分と前から、この国の学校では、「成績を上げるには、自身の成績を上げるよりも、周りにいる人間の成績を下げるということへ労を払った方が、効率がいい」というソリューションが子供たちの間に蔓延していてこれは大変に由々しき事態だ、という研究が報告されており、学校の教員をしている人などは全員読んでいるとは思うが、それでもまあ私の場合は小学校から大学までそういう人間が周囲にいるということはなく、また大学を卒業してからはフリーランスであったため、ひとところに止まるということがなく、やはりそういう学校のクラスや町内会のいざこざみたいなものとは無縁というか無視していても問題ない立場にあったのだが、ここにきて、同じ場所にずっと教室を構えていると、不運なことに今度は、どうやらそういういざこざに巻き込まれ得る立場にいるらしい、ということが、最近わかってきた。いまではそういう世代の最初が、つまりは60才くらいの人たちが、いろいろな組織のトップに立っていて、まあ、そういうことなのかな、と思ったりする毎日であるが、周囲の足を引っ張ることで利を得るというソリューションは、寄生虫のソリューションと同様であるから、ある段階で、宿主が生き絶えた段階で、通用しなくなるソリューションであることは、自明だ。そして非常に不幸なことに、人間は、寄生虫ほどには、強くない。
私たちは、消費することに慣れている。慣れ過ぎてしまった、と言ってもいいかもしれない。現在、私たちの身の回りには、とても豊かに、たくさんのものが存在している。しかしこれは、そこに元から、勝手に存在していたものではないということは、忘れない方がいいだろう。というよりはむしろ、積極的に思い出していかないといけないことである。
いま私たちの身の回りにある豊かさは、遠い昔から、少しづつ、誰かが、一生懸命、増やし、富として蓄えてきたものである。自分や、自分の周囲程度で食い潰していいものではない。
私たちがすべきは、時間を超えて譲られたこの豊かさを、守り、そして、更に豊かにしていくということである。歓待という概念は、とりあえず旧約聖書くらいまでには遡ることのできるフレームだが、アブラアムの徳性の一つは、なに一つない荒野の只中で訪れてくる見知らぬ誰かを歓び迎え入れていたという点に、あるだろう。これに比せば、現代日本において、日々研究を続けながら訪れてくる生徒を待ち、ベルが鳴れば歓び迎え入れる、こんなことは、少なくとも私の感覚では、なんの造作もない。それに元より怠け者で面倒なことが嫌いであるから、それ以外のことに手を出すつもりも全くない。そんな暇は、ないからだ。気分は常に、砂漠のように乾いている。常に焦がれるものが、あるからだ。
求め続けてさえいれば、そのドアは、必ず、開くだろう。
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