他地域出身の友人などと方言を教え合うのは、とても楽しい。国語の文法の授業があれほどつまらなかったのが嘘のように話題が尽きることはなく、何処までも意欲的に語り合うことができる。引退した老人がアマチュア研究家として地元の方言について色々と精力的に活動している例は全国枚挙に遑がないし、最近では老人たちばかりでなく、UターンやIターンで地方へ降り立った若者が積極的に地域の方言を活かして振興に役立てている例も最早珍しいことでもなんでもない。だからいい加減そんなことは止したらどうか、という話ではもちろんなくて、かつて方言というのが恥ずかしいものと受けとられていた時代に比べれば、随分とリテラシーも上がり健全で、豊かな感性が全体として育ってきておりとてもいいことのように思われる。観光で地方を訪れた際など、ふと立ち寄った土産物店で、方言についてのグッズなどが置いてあることもしばしばで、その地域の文化や歴史を知る上ではやはり言葉というものは大切であるから、ただ食って寝て帰るという従来の観光よりも、楽しみ方が増えていて、面白い。妙な排他主義にさえ繋がらなければ、言うまでもなく、いい傾向と言えるだろう。
老若男女、盛り上がらざるを得ない方言についての語りというのは、ほとんど常に、「方言会話」についての語りである。「こういう時はね、こう言うんだよ。標準語で言うところのさ、あれからきてるんじゃないかな」という感じで、たぶん、国語の文法の授業みたいに机に座って文字を書き記しながら「この方言の動詞〇〇の~形は△で##形は□で―――」という風に活用形一覧をつくったり等々して、その方言全体の文法を記述せんと目論み、そのためにはもちろん言語学の知識や専門的な方言調査の方法について熟知している必要があるから大学などへ通って専門の訓練を受け…なんていう風にやってる人は、ほとんど存在してはいないだろう。
「方言会話」について語り合うのが何故楽しいか? 答えは、適当でいいから、である。そして、適当でいいにも関わらず、その語りが、絶対、であるからだ。つまり、その方言のネイティヴスピーカでありさえすれば、自身が説明している事項が例え周りの人に「それ、違うんじゃない?」と言われても、例え専門家に「それは違いますね」と言われても、「いや、私はこう言いますんで」と突っぱねることが可能であり、その突っぱねにほとんど根拠なんてなくても、殊に会話に関すれば、なんの問題もないからである。だって、ネイティヴスピーカでありさえすれば、もし他の誰もそんな言葉遣いをしていないとしても、その人にはその用法を創造する余地が、残されるているからである。「会話」においては、ネイティヴスピーカというのは、ほとんど神様と変わらない。いいとか悪いとかいうことではなく、「会話」というのは、そういうものである。これは「方言会話」だけでなく、「日本語会話」について話す時、あるいは教える時も、同様だ。
「複数人でレストランに入って店員の人に自身が注文するものを訊かれた時はね、うなぎが食べたいなら例えば〈私うなぎ〉って言えばいいんだよ。私はうなぎじゃないのに、変だよね。可笑しい。もうちょっと丁寧に言いたければ、〈うなぎお願いします〉とかでもいいし、あるいはそれだと少し堅いなと感じるようであれば、〈私うなぎね〉みたいに、最後に〈ね〉をつけると少しだけ和らぎますね」こういう会話というか、フレーズだけを教えるということであれば、日本語のネイティヴスピーカであれば、ほぼ全員が、なんの躊躇もなく、楽しく、半ば恍惚に浸りながらできるだろう。ただ、いま挙げたようなことを「文法的に」説明せよ、と言われると、これはほとんどの人には無理であろうと思われる。例えそれっぽいことが言えたとしても、「果たしていまの説明で大丈夫だろうか?」という疑念を拭い去ることは、難しい。なんとなく、すっきりしないので、教授法を勉強したり、最新の論文を読んだり、普段から休まる暇もないくらい周囲で飛び交う日本語についていつも考察する必要を迫られるようになってくる。こうなってくると、言うまでもなく、多くの人にとっては、苦しい。方言会話について語っていた時のあの全能感、そして優越感は、忽ちに何処かへ霧散する。なんの話だったか?
方言会話や日本語会話について、語り合ったり、教えたりするのは、楽しい、という話だった。この楽しさは、それを語る際は、「適当」でいいのに、しかしながら「絶対」であることに、起因した。これが、ネイティヴスピーカの「特権」である。ただ、この特権は、飽くまでも、「会話」を表面的に語り合い、または教えるという限りにおいてしか、発動しない。ひと度、「論文を書け」とか、「文法的に説明せよ」とか言われると、「勉強」しないと、できなくなる。「自分の感覚を超えたところにおける合意」を要すからである。専門的な教育を受けないと、そういうことを上手くこなすことは難しい。もちろん、専門的な教育を受けていくにつき、ネイティヴスピーカであるということは、それなりに有利に働くところだが、とはいえ、非ネイティヴスピーカに対して常に圧倒的なアドヴァンテージを保持できるというわけでは、決してない。いわゆる日本人研究者よりも源氏物語を読み尽くせる外国人研究者はたくさんいるし、現代日本語にまつわる様々な現象について日本語のネイティヴスピーカよりも遥かに精緻な分析を施すことのできる外国人も、少なくない。端にネイティヴスピーカであるというだけの理由で、そういう場において、彼らを捻じ伏せるということは、できはしない。ただ、そういう優秀な外国人たちがどれだけ逆立ちしても一生できないことがあり、それは、「誰がなんと言おうとね、これはね、こう言うんだもん! いいの! 正しいの!」と言うことだ。これだけは、非ネイティヴスピーカには、永遠にできない。それは、ネイティヴスピーカだけに許された、特権だからである。
大学でチェコ人の先生の授業を受けていた時、その先生は最初に「君たちは外国人だ。スパイにはなれるが、でも、外国人だ。そして、それでいい」と、もちろん冗談ではなく、仰った。非常にレベルの高い先生に習うことができて、幸運であったと、いまでもそう、思い出される。これはもちろん、皮肉ではない。私たちは奴隷ではない、という当たり前の事実を、まず初めに教えてくれたのだから──そういえば、社会言語学の成果の一つが詳らかにしたことは、かつて植民地で宗主国の言語を奴隷に教えるに際してはその内容は「会話」に限られていた、ということだったように、思われる。
Back to Top