桜の色をみていると、何色だろう。揺れるので撮りにくいけれど、自身も同時に揺れればなにも揺れてはいないだろう。止まっていると揺れている絵が撮れるし、同時に揺れれば止まっている絵が撮れる。春になると桜が咲いたけれど、たぶんそれは春だからで、春だから忙しいのだろうとも思われる。年が明けてから教室に対して向けられていた迷惑行為の類が霧散した。然るべき機関に注意してもらったのが効いたのかもしれない。注意されて止める程度の気持ちであれば、初めから、しなければいい。そういう気付きが褒められるのは、子供のうちだけである。
足を引っ張られて酷い目に遭った知人がいるけれど、その時に思ったのは、世の中には人の足を引っ張る人と、人に引っ張られたくなるような足をもっている人がいるということで、一般に、前者の立場にある人は、「足ってものは、引っ張り、引っ張られ、お互いに、お互い様なんだ」というようなことを言うもので、しかし仔細に観察していて思うのは、残念ながら、一人の人間が前者と後者の立場を合わせもつということは、「ない」ということだ。残酷な事実だけれど、人の足を引っ張るようなことをする人は、永遠に、一生、人の足を引っ張っているだけで、一度でも人に足を引っ張られたことがあるような人は、安心していい、その人は、人の足を引っ張るような人ではない。それは永遠のことであり、一生の、ことである。両者には劃然とした違いがあり、全く別の生き物であると言っても構わない。
「きれいはきたない、きたないはきれい」―――これはシェイクスピアにでてくる台詞であるが、重要なのは、これは魔女の台詞だということだ。一見、真実を突いているように思われる。しかしこれは、魔女の放った台詞である。つまり、魔女というのは、真実を語る立場にない。魔女というのは、嘘を現実にする悪魔の別名だ。綺麗な人を不当に貶め、汚い人を不当に祀り上げる。完全に魔女の領分であり、関わるべきではないだろう。簡単な話だ。
綺麗な人は、綺麗。汚い人は、汚い。客観的、そして素朴な事実の話である。急に教室の話へ戻れば、そういうところが曇らされている子が、儘いる。少し、難しい環境で普段から生活しているのであろうと思われる。でも、やはり言い続けなければいけないと思うのは、綺麗なものは綺麗だし、汚いものは汚いということだ。勉強ができることは、いいことだし、スポーツが上手いことは、いいことだ。楽器ができることもいいことで、歌が上手いのも、いいことだ。そういう単純な事実に、素直に「そうだね」と言える子が、減っている。子供だけでなく、大人も、同じだ。そんなに魔女になりたいのかな、と思われる。有名な、歌がある。
〈願わくは花の下にて春死なむ。その如月の望月の頃〉
綺麗だ。
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