大学へ入学した四月に早くも散り始めた桜をみながら「これで好きなことが好きなだけ学べるな」と思ったことはいまでも未だ瑞々しい記憶として残っている。私の場合そういった契機が訪れたのは大学入学の時点であったが、人によりそれがいつなのかというのは色々とあるだろうし、またそのありようについては未だ訪れていないとか既に訪れたが過ぎ去ってしまったとか、これもまた色々とあるであろうことは容易に想像されることである。いずれにしても要点として足元へ置いておきたいのは、そういう契機が訪れることのうれしさ、そしてその到来の偶然性であり、前者については既に触れたので、以下では後者について触れようと思う。
先日テレビを観ていたら、洋服作家の特集をしていた。自分の子供へ合うと感じられる服が市販にはないので、自分でつくり、着せているそう。テレビで紹介されるくらいだからきっとその前にはウェブメディアや雑誌で取り上げられたり、新聞に載ったり、あるいはそういう経験を活かしてカルチャー・センターで服飾講座をしたりしているのであろうと思われた。ついで、なのかどうかはしれないが、干し野菜をつくっている様子や台所の整理整頓にどういった工夫をしているかなどといったことも同時に紹介されていた。すごいといえばすごいが、よくよく考えてみればひと昔前の専業主婦であれば多くの人が当たり前のようにしていたことをしているだけとも受けとれる。画面をみつめるにつれ段々と、テレビで取り上げるほどのことかなという気が増していき、番組が終わる前に夕食の買い出しへとでかけてしまった。
外国語学習の方法論や目的論や動機論について無数にある言説も、これと同じである。このように書くと、だから無駄なのだ、という意見が控えているようにみえるかもしれないが、それは誤解であり、意見の趣旨は、常識については「こんなことは常識だ」と堂々開示する必要があるのではないかということだ。論じる必要があるとすればそれはどちらかというと、どうしてそういう常識が常識として語られなくなってしまったのかということで、常識の中身についてその好悪を論ずるというのはあまり意味のないことであるように思われる。好悪を論ずる必要がないことを私たちは常識と、そう呼んでいるからである。
全ての人が都会に生まれることができるわけではない。全ての人が金銭的に余裕のある家庭に生まれることができるわけではない。また、例えそういう条件が満たされても、全ての人が理解ある保護者の元に生まれ生活することができるわけではない。色々な環境要因により、全ての人が素直に真っ直ぐな心で物事へ取り組めるわけではない。全ての人がある程度の安心のなか平和な気持ちで物事に実直に取り組めるわけではない。全ての人が勉強すれば褒められる環境にいるわけではない。全ての人が努力すれば褒められる環境にいるわけではない。褒められるという表現が幼稚であるというならば、本を読めば暴力を振るわれる環境にいる人もおり、親戚中から爪弾きにされる人も、この世界にはいる。これは、それほど特殊な事態でもない。特に子供と外国語学習ということを考えるのであれば、必要な視点である。
もちろん、全ての人が好ましい形で、あるいは常識的な形で外国語に触れる必要はないだろう。結果としては、そういうことが得意な人々が各々の役目を全うし、その言語圏の文化的成熟度に資すればいいだけの話であるだろう。ただ、そういった人選を始める段階で、そもそも特定の条件を偶然のうちに与えられた者だけにしかテーブルにつくことができないような環境が続くなら、その分野は、確実にその裾野から痩せ細っていくだろう。機会の均等というのは、偶然性ではなく、必然性に基づかなければならない。偶然性というのは、どちらかといえばその必然性の拠り所である。だからこの偶然性を豊かにしていくということが、大切なことであり、人間にできることも、そこに限られる。
必要なのは、必然性の偶然性を担保することだ。
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